夜空を塗りこめる漆黒は、奥ノ院に唯一外界と変わらぬ時間をもたらすものだ。 「……太陽は、外界と同じではないの?」  九鳳院蒼樹は、自分の隣に座っている女の言葉にそう聞き返した。 「どこがと言われて答えられないのは痛いところだが……しかし、ここから見る太陽も月も、外で見るものとは違う。そんな気がしてな」  蒼樹の隣に座った長身の女、柔沢紅香は渋い顔で頷く。  着物を着た蒼樹も足を軽く傾け、気を抜いた姿勢で座っている。対していつもと変わらない様子の紅香は、この奥ノ院という場所の雰囲気を気にもかけずに煙草をくゆらせている。 「紅香、煙草は身体に悪いよ?」 「気にするな。私の場合吸わない方が身体に悪い」  そう言って紅香はまた呑気に煙草をふかす。蒼樹がもぉ、と苦笑するが紅香はやはり気にも留めない。 「それで紅香、話って何?」 「ああ……」  紅香は答えたものの話を始めようとしない。煙草を咥えたまま目を閉じて黙る。 「――――紅香?」  蒼樹がその沈黙を不思議に思って紅香の顔を覗き込む。その紅香の表情は蒼樹の前でいつも見せる気の緩んだものではなく、仕事に行くと言って奥ノ院を出る直前に見せる仕事人としての、揉め事処理屋としての表情だった。 「弥生」 「ここに」  紅香は蒼樹に答えず、代わりに自分に付き従う者の名を呼んだ。背後に突然現れるのはいつものことで、先ほどまで気配もなかったその場所に当然のように立っているのは忍者のような女性。蒼樹も彼女に声をかける。 「こんばんは、弥生さん」 「どうも」  弥生は短く頭を下げただけだったが、そんな彼女の対応にも慣れていた蒼樹は小さく笑って視線を紅香に戻す。 「見張りを頼む」 「御意」  短く答えて、弥生はすぐに姿を消した。 「それで話って何なの? ……聞かれたらまずいこと?」 「なあ蒼樹、おまえは見たいと思わないのか? この奥ノ院では見られないものを。本当の輝きを放つ太陽や月を……蒼樹、おまえはここを出たいと思わないのか」 「……ここを出たい? わたしが?」  蒼樹は思ってもみないことを言われたという表情で紅香を振り返る。 「そうだ。ここから出たいなら出してやる」 「…………ありがとう、紅香」  少しの間を置いて、蒼樹は答える。 「でもいいの! ここは幸せなところよ。外の世界のような争いや犯罪なんて何一つないんだから」  そう言いながら蒼樹は立ち上がり、縁側の近くに咲いていた花に近寄る。 「わたしは納得してここにいるの。ここで生きて、ここで子供を産んで、ここで死んでいく」 「おまえ、本当にそれでいいのか?」  蒼樹に続いて立ち上がった紅香が彼女の背後に立ってそう語りかける。だが、それは結局のところ確認に他ならないということは紅香自身にもよくわかっていた。蒼樹は本当に、全てに納得しているのだろう。兄である九鳳院蓮丈を愛し、愛され、この奥ノ院という異世界で暮らすことに疑問を抱かなかった彼女には、紅香の言っていることの方がわからないのだろう。  だがそれでも、紅香は納得できなかった。自分の数少ない『普通の』友人である蒼樹が、こんな場所で一生を終えることがどうしても許せなかったのだ。 「……そうね。じゃあ……一つだけ聞いてくれる?」  紅香にとって意外なことに、蒼樹は素直にそう口を開いた。 「もしいつか……わたしが女の子を産んだら、その子の願いを一つ、叶えてあげて欲しいの」  いくつもの花の中から一輪だけつみとった白い花を見つめながら、蒼樹は言葉を続ける。 「わたしはこの地で終わることに不満はないけど、生まれてくる子はそうじゃないかもしれないし……ね」  にっこりと笑って、蒼樹は紅香を振り返る。俯いたままの紅香は、それでも固い覚悟を持って答えた。 「……わかった。必ず、叶えるよ」  奥ノ院を照らす月に、雲がかかった。 「それ、本当の話なのか?」 「ああもちろんだ。今までわたしがおまえに嘘などという下らない言葉遊びを仕掛けたことがあるか?」 「いや、ないが……」  久し振りに帰ってきたと思ったら、昔話を聞かせてやるなんて妙なことを言い出した母親を前にして、柔沢ジュウは自分の金髪を掻き毟った。 「何なんだよ急に。んな話聞かされても、印象がよくなったりはしねーぞ」 「あ? 別にわたしのバカ息子にそんな期待はしてねーよ」 「……ほんとに何なんだよ」  紅香は最近少し物腰が穏やかになった息子を見て、内心ため息をついた。 (まぁ、信用のおける奴を見つけたのならいいがな……だが、話に聞いた連中は堕花、斬島、円堂。つき合わせておいて良いものか……) 「何だよ」  紅香の沈黙をどう思ったか、ジュウが不満気に口を尖らせる。 「いや、別に。そういえばおまえ、例の……何だったか、下僕とやらとは上手くやっているのか?」 「下僕……ああ、雨のことか。別に、何もねぇよ」  そうは思っていないのだろう、下僕という言葉では通じなかったらしい。 「斬島や円堂の娘とはどうだ?」 「な、何でそこまで……」 「おまえの母を甘く見るんじゃないよ、クソガキ。まぁ、情報通の看板娘と知り合いでね」 「看板娘……?」  不思議そうに首を捻るジュウを見ながらあの情報屋を思い出す。 「ほら、柄にもなくお前の交友関係を心配してやってんだ。少しは感謝しやがれクソガキが」 「うっせーよクソババァ――ぐほッ!」  向かい合って座るジュウに紅香の蹴りが炸裂する。 「て、てめ、このクソババァ……」 「わたしはクソでもババァでもないって言ってんだろ、このクソガキが」  倒れこんだジュウが紅香を睨みつける。 「さて、わたしは仕事があるからもう帰るぞ」 「こ、この、本当に何しに来たんだ……」  倒れたジュウを置いて紅香が立ち去ろうとすると、滅多に鳴らない柔沢家の電話がけたたましく鳴り出した。紅香は倒れているジュウを一瞥してから、気まぐれに電話を取ってみることにした。 「もしもし、柔沢だが」 『は? あれ、ジュウ様は……』 「ああ、堕花の娘か」 『その声は……確か、ジュウ様のお母様でしたか』  電話の相手は堕花雨だった。紅香の一言でジュウにもそれが伝わったらしく、ゆっくりと起き上がる。 『なになにー、雨、ジュウ君のおかーさんいるの?』 『柔沢……ああ、柔沢紅香ね』  電話の向こう側でも何やら騒がしい会話が展開され始める。 「おいクソガキ、わたしは忙しい。お前みたいなつまらない人間と付き合い続けてくれる人間をせいぜい大切にしてやることだ」 「……うるせーよ。とっとと受話器渡せ」 「ふん」  紅香は馬鹿にしたように薄く笑ってから、受話器をジュウに投げるように渡した。 「じゃあな、クソガキ。せいぜいつまらない人生を謳歌していろ」  ジュウの返事を待たず、紅香はさっさと出て行った。 「……おや、これはこれは柔沢紅香さん」 「ほう、珍しいところで会うな。悪宇商会の飼い猫じゃないか」 「珍しいのはお互い様ですよ」  そう言って野暮ったい眼鏡の奥から薄笑いで紅香を見返すのは悪宇商会人事部副部長、ルーシー・メイだった。 「今回はわたしが狙いか?」 「まさか。いくら我が社でも無理な仕事を請けたりはしませんよ。大体、あなたを消せという命令なら、人事部の人間じゃなく戦闘屋が来るでしょう」  ルーシーはいつもの薄笑いを崩さずに紅香の冗談にも答える。 「まったく、悪宇商会の人間にしておくのはもったいないな。わたしのところに来ないか?」 「人事部の人間を引き抜こうとするなんて、相変わらず予想の斜め上をいく人ですね」 「そうか?」  ジュウが嫌がるため先ほどまで咥えていなかった煙草に紅香は火をつける。 「では、仕事がありますので失礼します」 「仕事? 今回は誰を引き抜こうとしているんだ?」 「某ラーメン屋の看板娘ですよ」 「ほう……。ついに悪宇商会に目をかけられるだけの人材になったか」 「ああ、あなたとはお知り合いでしたね、彼女」 「行くだけムダだと思うがね」 「そうですね。しかしやるだけやっておかないと。こちらも雇われている身ですから」  ルーシーもわかっている。誰が何と言おうと、村上銀子は悪宇商会には協力しないだろう。紅真九郎が悪宇商会につけば別かもしれないが、それ以外では決して納得しないだろうということを。 「ふ、お互い苦労するな」 「ですね」  短く答えると、ルーシーは眼鏡をくいっと持ち上げ、ニット帽をかぶりなおすと振り返らずに立ち去った。 「ぐっ、こ、この野郎……」  目の前に膝を着いて自分を睨みつける男を見下ろしながら、紅香は銃の安全装置を外した。 「悪いがこれも仕事でね。柔沢紅香を敵に回した自分の不幸を恨んでくれ」  そこに躊躇はない。あっさりと引き金を引くと、目の前の男の額から真っ赤な鮮血が噴出した。もちろん紅香に動揺はない。それどころか見事なまでにその血しぶきをかわしきり、返り血の一つも浴びずに男に背を向けた。 「うるぁああっ!」 「!」  次の瞬間、紅香の首筋に伸ばされたナイフを、間一髪紅香も短刀の腹で受け止める。 「はっ、相変わらずガードが固いね、柔沢紅香」 「……斬島か。何の用だ?」  表情一つ変えない紅香に幾分不満そうにしつつ、突然の襲撃者である斬島切彦は手元のナイフをくるくると弄ぶ。 「別にアンタに用はねぇ。今しがた殺られた男の護衛なんていう退屈な仕事が終わったばかりなんでな」 「護衛? その割にはあの男がわたしに殺されるまで出てこなかったじゃないか。お前も雇われ殺し屋なら、仕事くらい真面目にやったらどうだ?」 「オレはアンタの言う通り雇われ``殺し屋``だ。真面目に請け負うのは殺しの仕事だけさ」  切彦はそう言ってつまらなそうにナイフを放り投げる。それが意識してのことなのか勢いでのことなのかはさすがに紅香にも分からなかったが、とにかくナイフを手放したことで、切彦の表情はいつもの眠たげなものに変わった。 「……あ、どうも」 「…………」  どうも『こっち』の切彦は苦手だと、紅香は渋い表情で頬をかく。 「……おにいさ……えっと、真九郎さんは元気にしてますか?」 「さあな。あいにく最近は会ってないんでね。まぁ死んだって話は聞いてないがな」 「そうですか」  相変わらずぽーっとした雰囲気の切彦がぶるぶるっと身震いをする。 「……さむいです。ずずっ」 「鼻をすするくらい寒いなら帰って休め。わたしに用は無いのだろう? わたしも斬島の殺し屋と長話をするほど暇ではない」 「……そうですね。では失礼します」  ぺこりと頭を下げて紅香に背を向けた切彦が、数歩進んだ先で思い出したように紅香を振り返る。 「しーゆーあげいん」  ぴっと紅香を指差して、いつもの棒読みな英語がそう告げた。 「……やらしいわ」  もやし大盛りのラーメンを紅香の前にぞんざいに置いた看板娘は心底不機嫌そうな顔で呟いた。 「何がだ?」 「あんたのことよ、柔沢紅香」 「それは失礼」  誠意のこもらない謝罪に、風味亭の看板娘こと村上銀子は深い溜息をついた。 「真九郎は元気か?」 「……その情報にいくら払う?」 「払うのはラーメン代だけさ」 「なら教えないわ。大体、あんたが知りたいと思ったらあたし以外にも腕利きの知り合いがいるでしょう」 「もちろんだ。だからこれはただの世間話さ」  悪びれもせずにラーメンを口に運ぶ紅香を、銀子はつまらなそうに眺めている。 「それで? 結局わたしの何がやらしいと言うんだ?」 「あんた、あの女があたしのところに来る前に会ったんでしょ?」 「あの女?」 「悪宇商会人事部副部長、ルーシー・メイよ」 「ああ」  先ほど仕事の前に出会ったニット帽と眼鏡の飼い猫を思い出して紅香は頷く。  その頷きを確認した銀子はなおも不機嫌そうに続ける。 「どうして止めなかったんです? お陰で随分無駄な時間をとらされたわ」 「それはわたしの責任ではない」  いけしゃあしゃあと言ってのける紅香に、銀子は小さく舌打ちをする。  だが、それ以上反論してこないところを見ると、銀子も自分の言葉がただの言いがかりだと理解しているらしかった。 「旨かった。さすがだな」 「あんたに褒められても嬉しくないわね。これっぽっちも」 「そうか」  互いにいつものポーカーフェイスを崩さない。  紅香はポケットから少し多めの小銭を空になった丼の脇に散らかす。 「慰謝料だ」  そう言ってにやりと笑うと、がらがらと引き戸を開けて出て行った。 「弥生」 「は、ここに」  いつものようにどこからともなく現れたスーツ姿の犬塚弥生。 「この後の仕事だが」  煙草に火をつけながら話す紅香のやや後ろを歩きつつ弥生が淡白な声で答える。 「既に準備は整っております」 「ありがと」 「いえ」  短く答えて、再び弥生の気配は霧散した。 「……どいつもこいつも、苦労人だな」  紅香はひとりでそう呟くと、落とした煙草の火を踏み消し、着慣れた赤いコートを翻して仕事に向かうのだった。