『雨、寝息、部室にて。』 この部屋は静かだった。 聞こえるのは雨の中を急いで帰宅する生徒たちの声と、窓を打つ雨音。 それから―――彼の静かな寝息。 普段は何かと騒がしいこの部屋も、今だけは静かに、心地よい沈黙を保っている。 「………」 私はその沈黙を破らぬように、黙って本のページをめくる。文章を目で追いながらも、少し読んでは顔を上げ、また少し読んでは顔を上げる繰り返し。顔を上げればいつもそこに彼が眠っていて、静かな寝息を立てている。 「………ふふ」 口に出して、自分でも驚いた。 普段意識したって出来ない事が、自然にできていたのだ。私は今『自然に微笑んだ』のだった。 自分の不思議な行動にしばらく呆然とする。 どうして、笑う必要の無い私が、微笑んだりしたのだろう。 だけどきっと、いくら考えてもこの疑問に答えは出ない。何となく、それが分かった。 だから私はもう一度本に目を落とす。 弱いともいえないのだけれど決して強いともいえない雨音。 中途半端ではあるけれど、それは優しい音。 一人で家にいる時に感じる、冷たく、打ちつけるような音じゃない。 とても優しくて、暖かくて……「これ」を表現するのに適切な言葉が思いつかない。 ……って、私は一人で何を考えているんだろう。別に説明する必要も無いのに、言葉探しなんかして。 いつの間にか、ページをめくる手も止まっていた。 その手を動かし始めたのと同時に、ガチャリと扉が開いて、出かけていた三人が戻ってきた。 「たっだいま〜!!……ってあら、キョン?帰ってきてたのね」 「暖房が入ると、いくらか暖かく感じますね。いやはや、寒い廊下よりずっと居心地が良いです」 「……キョン君はお疲れみたいですね」 三者三様の反応。私はあの満たされた時間に少しだけ名残惜しさを感じながら、ゆっくりと本から顔を上げる。 「有希、あたし達の留守中、何か変わったこととかあった?誰か来たりとかは?」 「何も」 「そう、ならいいわ。片づけて帰りましょう。もうすぐ下校時刻だしね」 涼宮ハルヒはそう言ってカメラを鞄にしまい、古泉一樹はレフ版を片づけ始める。 「あのあのあの、私ここで着替えるんですかぁ?キョ、キョン君が寝てるんですけど…」 「ん〜そうねぇ……さすがにここでってのもまずいし…キョンを起こせば早いんだけど、ほんのちょっとだけ可哀想ね」 そう言ってしばらく思案していた彼女は結局、女子更衣室に行くよう朝比奈みくるに言った。 数分後、朝比奈みくるが戻って来た。 「た、ただいま戻りました…」 「遅かったじゃないの、みくるちゃん。……まぁいいわ。今日はこれでお開きよ。三人とも、帰っていいわよ」 「おや?涼宮さんは、まだお帰りになられないのですか?」 「仕方ないでしょ。コイツが起きるまで鍵掛けれないし」 「……わかりました。では、今日はご苦労様でした」 そう言って古泉一樹が出て行き、朝比奈みくるもそれにならう。 私は読んでいた本を閉じると、まだ寝息を立てている彼に歩み寄った。 「有希?キョンがどうかした?」 「風邪、引くから」 私が羽織っていたカーディガンを彼の背中にかけてやる。上着を脱いだのだから体温は下がるはずなのに、彼にカーディガンをかけた直後から、私の体温は上がりっぱなしだった。 「有希……顔赤いけど、大丈夫?」 「……平気。何でもない」 「ふーん。まぁ、何でもないならいいわ。ほら、下校時刻過ぎてるし、有希も早く帰りなさい」 「分かった」 私はハンガーにかけていた別の上着を手に取ると、それを着て部室を出た。 冷たい夕暮れの冷気を浴びながら家に帰る私の足は、なぜかとても軽かった。 それはきっと、わたしにとって大きすぎるほどの幸福な時間をもらっているから。 彼の寝顔を見れた今日は、最高の日。                                          <了>