第一章 「………」 目を開けても、わたしはしばらくの間じっとしていた。 窓から差し込む光は暖かく、鳥の鳴き声と共に今日が快晴であることを教えてくれていた。 「…………」 有機生命体の一日の気分はその日の天候に左右される事もあるとどこかで読んだような気がするが、あいにくわたしには当てはまらない。 根本的な部分から違うためか、それともわたしが特異なのか。……最近は後者であるような気がしてならない。 別に性格がどうとか、そんな問題ではなくて。 どうも最近のわたしはおかしい。 性格とか、思考とかではなくて。 エラーやバグと表現すればわかりやすいだろうか。 そもそもわたしたちインターフェースは夢を見る必要もないし、そんな機能もない。 「夢」というものがあるという認識は持っていても、本来それを体感するなどありえないこと。 ……なのにわたしは、ここ数日の間よく夢を見る。 夢の内容はいつも同じ。 わたしが誰かとひたすらにキスを繰り返すだけ。 相手はいつも同じ。 わたしの知っている「誰か」。でも、それが誰なのかは分からない。 「……………」 拭えない違和感はあるものの、任務に支障はない。 わたしはようやく起き上がると形式上敷いてあった布団を抜け出し、玄関へ向かう。 その間に全ての軽い情報操作を終えて準備を整え、一度も立ち止まることなく家を後にした。 学校までわざわざ歩く必要も無いのだけど、今日は少しだけ、歩いてみようかと考えた。 つい先刻まで見ていた「夢」について、もっと限定すればその「夢」の中の「誰か」について考えたかった。 学校へと続く坂道を登りながらわたしは「夢」の記憶を辿る。 だけど、そこはやっぱり夢だったようで。 その内容は思い出せても、鮮明な映像までは思い出せない。 無意識下で認識している「夢」ばかりは、私でも記録することは出来ないようだった。 仕方なくわたしは答えの出ない疑問を追及しながら、長い坂道を登っていった。 あ、校門だ。 *** さて、今日も放課後を迎えてしまったらしい。 「……ったく…」 そう呟いてから、俺は荷物を適当に鞄にまとめて教室を出た。もちろん、目的地は「あそこ」しかあるまい。 できるだけゆっくりと、旧校舎に向かう。 まぁこの旧校舎が廃屋なんかじゃなく、普通に部室棟として使われていてよかった。 もしここが漫画なんかによくあるような廃屋だったりしたら、ハルヒによるSOS団最初の活動はこの校舎の探索になっていただろう。 そんな事をぼんやりと考えながら階段を上り、気が付けば俺は部室の前に立っていた。 念のためコンコンと戸をノックするがあいにく返答らしい返答は聞こえなかった。 返事が無いと言うことは、ハルヒ、朝比奈さん、古泉の三人は確実にまだ来ていないと考えてもいいだろう。 だが、約一名。ノックに反応など返してくれなそうな団員がいる以上、挨拶なしに扉は開けられない。 「ちーっす」 開口一番軽い挨拶。 視線を少しだけ上げればそこに―――いた。 「よぅ。今日は長門だけか?」 「……そう」 「そっか」 それ以上何を話すでもなく、俺はいつもの定位置にパイプイスを開いて腰を下ろすと、古泉が来るまでの暇潰しがてら、一人オセロを開始する。 そういえば、長門はオセロも強いんだったな。 朝比奈さんがほとんど半泣きだったのをよく覚えている。 「長門、たまにはオセロやらないか?どうせ俺が負けるんだろうけどさ」 「………?」 長門が僅かに首を傾ける。 何故俺が唐突に長門をオセロなんかに誘ったのかが理解できない、ってところか。 「別に深い意味はねぇよ。古泉ばかりが相手じゃ飽きるしな」 「………」 長門は無言のまま小さく首肯すると本を閉じ、俺の正面に座った。 ルールは知ってるはずだし、改めて話す事は何も無いはずだ。 「んじゃ、始めるぞ」 *** 彼に誘われた「オセロ」。 初めてのときは、彼にレクチャーしてもらった。 その時の様子を思い出しながら盤面をじっと見つめる。 黒がやや優勢。白がやや劣勢。 黒はわたし。白が彼。 何となく、勝たせてあげたいなんて思う自分がいるけれど、きっと彼にはわたしが手を抜いたとわかってしまう。 彼は多分……この世で一番わたしを理解している。 わたしの性格も、能力も。 あるいは情報統合思念体よりも正確に―――。 「……ん?どうした、長門」 「……なに?」 突然声を掛けられてわたしは彼の顔を見つめる。 「いや、長門の番だぜ」 「……そう……」 わたしは迷わずにすぐさま負け手を打った。 さっきまで考えていた事は、結局何の役にも立たなかった。咄嗟に出たのが負け手だったのだからどうしようもない。 そのゲームで、わたしは初めて負けた。 「……長門、どうかしたか?」 「…何でもない」 「そう……か」 彼に聞かれて口をついて出た言葉は何でもない、だった。 そう、何でもない。ただの気まぐれ。あるいは……ただの小さなエラー。 彼は不思議そうに私を見ていた。わたしはその視線の意味がわからないと、目だけで彼に伝える。 そのまましばらく時間が過ぎた。 *** 長門は俺の視線に疑問を持って俺を見つめ返しているようだと感じてはいた。 だが俺自身、その時感じた違和感の正体がわからないのだから、長門に何を質問することも出来ないまま、俺はひたすらに長門を見返していた。 「………」 「…………」 二人分の沈黙が流れる中、俺も長門も相手から視線を外そうとはせず、ただただ時間だけが過ぎていった。 ……そのまま続いてくれれば楽だったんだろうけどな。 「や〜っほ〜!!」 「……っっ!!」 「………」 突如扉を蹴破って部室に飛び込んできた元気すぎる挨拶を耳にして俺と長門は同時に振り返る。 「あれ?有希とキョンだけ?みくるちゃんと古泉くんは?」 「さ、さぁな。この時期だし朝比奈さんはまだテストやってんじゃないか?」 焦って答えながら、さっきの様子をハルヒに見られなくて良かったと心底思う。 さっきは何も考えちゃいなかったが、冷静に考えてみればさっきの状況は長門と俺が見詰め合ってたとも取れるわけで。 ……というか、込められる意味は違えど表現上その通りなのだからタチが悪い。 「古泉くんは?」 「……古泉一樹はアルバイトで欠席との連絡を受けている」 長門の呟きにハルヒと俺が同時に振り返る。 そうなのか?俺は初耳だぞ。 「ふ〜ん…そう」 ハルヒはそう言って団長席に腰掛けると、いつも通りネットサーフィンを始める。 仕方なく俺は長門に再戦を申し込む。 「……そう……」 というわけで、第二戦スタート。 *** その晩、家に戻ったわたしは違和感を感じて窓の外へ視線を向けた。 この感覚は……? 「……閉鎖空間…」 ふとそう呟いてしまう。 涼宮ハルヒの能力がまた暴走している。 わたしの小さなエラーと涼宮ハルヒの暴走に何らかの関連があるのだろうか…。 少しばかりの間わたしは自分の思考に耽っていたがやがてそれも諦め、今回の閉鎖空間の解析を始めた。 *** 自室のベッドの上で長門に借りた分厚いSF小説を読むともなしに読んでいた俺の枕元でピリピリと携帯が音を発した。 「……ん?…」 着信表示は古泉のものだったので、俺は急ぐ事も無く本に栞を挟んでから起き上がり携帯の通話ボタンを押す。 「……もしもし?」 「ああ、出てくれましたか。随分コールを無視されたのでもう眠られていたかと思いました」 「起きてはいたがな。男からの電話に急いで出るのも癪だからな」 「なるほど。その点については普段なら同意しますが、今回ばかりはそうもいきません」 古泉の声に少しだけ真剣さを感じ取った俺はベッドの上で居住まいを正し、電話の向こうの古泉の声に耳を傾ける。 「つい先程、また例の閉鎖空間が発生しました」 「またか…。で、また俺をあの灰色空間に連れ込もうって腹か?」 「いえ、閉鎖空間自体は我々『機関』の人員を総動員して閉鎖……いえ開放しました」 「てことは例の《神人》退治はもう終わったのか。じゃ何で今更俺に連絡してきたんだ?」 「ええ…時間は遅いのですが、今すぐお会いできないでしょうか………少しばかり長くなりそうなので」 俺は少しの間迷ったが、古泉の声の調子から重要な話であることは明らかだった。 「……分かった。どこに行けばいい?」 「いえ、すぐにタクシーを向かわせます」 俺は寝巻きを急いで着替えると階段を下りて、いつものようにアイスを食べる妹に「少し出かけて来る!!」とだけ言って家を飛び出した。 外に出るともう既に、例の黒塗りタクシーが停車していた。 俺が近寄ると後部座席のドアが勝手に開き、俺を招き入れる。 運転手は俺が乗り込んだのを確認するとシートベルトをするように言ってからアクセルを踏み込んだ。 タクシーは法定速度ギリギリのスピードで爆走し、人気の無い公園の前で停車した。 俺がドアに手を伸ばすと、それより早く外側からドアが開けられた。 「どうも。わざわざご足労頂き、ありがとうございます」 「社交辞令のつもりか?早く本題に入ってくれ」 「そんなつもりは無かったんですが……では、ご希望通り本題についてお話しましょうか」 そう言ってようやく古泉がドアから離れたので俺も外に出る。 しばらくの間、俺はあの閉鎖空間を思い出していた。 確かに空は灰色ではなく漆黒を保ち、星の輝きもあるが夜の住宅街には全くと言っていいほど人影が無い。 俺の乗ってきたタクシーがいなくなると、俺と古泉以外に闇の中で動くものは無くなった。 「で、こんな夜中に俺を呼び出すって事は、よほど重要な話なんだろうな?」 「ええ。そこは保障します」 そう言って一瞬だけいつもの爽やかスマイルを浮かべ、古泉は話し始めた。 「……先程の電話で申し上げた通り、先刻、例の閉鎖空間が発生しました」 「らしいな」 「そして電話で申し上げた通り、今回の閉鎖空間への対処には『機関』の人員を総動員せざるを得ない状況でした」 「………」 「以前、僕がお話したかと思いますが、末端の僕が把握している『機関』の超能力者は構成員のほんの一部でしかありません」 俺は記憶を辿ってようやく古泉のその言葉を思い出す。 例の、超能力者だと告白された日に聞かされた話の中で聞かされたような気がする。 「お前が知っている限りでは地球全土で十人前後だって話か」 「ええ、その通りです。今回はそれよりも若干多く、初対面の方も数人おられました」 「それだけ人数が必要だったと?」 「そうなりますね。……いえ、それだけではありませんよ?」 そう言って古泉は、何がおかしいのか含み笑いを漏らす。 いつもなら文句の一つも言ってやるところだが、今はそんな事に無駄な時間を使いたくは無かった。 「本来『機関』の中でも僕のような能力者の情報はトップシークレットです。ですから僕も最低限しか知らされていません」 「それはさっき聞いた」 「それらの情報は上層部のお偉方が管理するもので、能力者同士が集まって『機関』に反抗する事を恐れているというのが現状です」 そりゃまぁ、お偉方の気持ちもわからないでもない。 古泉みたいな連中が『機関』とやらを抜ければ、組織自体が存在意義を失ってしまう訳だしな。 「しかし、今回はそんな事情などお構いなしに僕らを総動員しての《神人》退治でした。この意味が、分かりますか?」 「……わからん」 少しだけ真剣に考えたが、途中で虚しくなってそう答えた。 「簡単な話、それだけ状況が切迫していた、という事です」 古泉はそう言って、他人事のように肩をすくめ、溜息を漏らす。 「今日の閉鎖空間は一際巨大でした。東西南北……日本全土を覆っていまして。遠目に見た限りでは海上にも《神人》の姿が見受けられました」 「……そこまで巨大な閉鎖空間を生み出すほどハルヒは不機嫌だったか?」 「少なくとも僕の目には、いつも通りに見えました」 「俺もだ。機嫌が良いか悪いかで言ったら、むしろ良い部類に入ると思うんだが…」 今日部室へやって来た時も、ハルヒは特に不機嫌というわけではなかった。 いつも通りに部室に飛び込んで来てSOS団ウェブサイトの何も無さに文句を言いつつも、俺に改装を命じて帰って行っただけだった。 その間にハルヒが不機嫌になるような事があっただろうか? 「そこなんですよね」 そう言って古泉は困り顔のまま笑うという器用な真似をやってのけた。 「あなたにもわかりませんか……閉鎖空間の発生を事前に抑えるには、涼宮さんのストレス要因を取り除かなければならないのですが…」 「それが分からなきゃ対応のしようが無いって事か」 その通りです、と古泉は笑って答える。 「その要因については是非、後日あなたの意見を伺いたいところです」 「……気が向いたらな」 「そうですね。……話は以上です。長々とすいませんでした。ではまた、部室でお会いしましょう」 「ああ」 言ってからふと振り返ってみればいつの間にか黒塗りのタクシーが戻ってきていた。 「お送りしますよ」 「…頼む」 俺は盛大に溜息をついて、タクシーに乗り込んだ。